バスは停車を繰り返し一時間も経つ頃には満杯で、停車の度に物売りも紛れて押し売りに現れる。それこそ初めはモノ珍しさもあり不慣れはヒンドゥー語とバリバリの日本語を駆使し、愛想良く相手をしていたのだがさすがに十人目ともなると目を合わせるのも面倒になってくる。そしていよいよバスは映画『スピード』を思わせる走りでアウランガバードへと爆走していくのである。
実はこのバス、デックスというのは名ばかりでちっともデラックスでない。なぜかというと
・合皮のシートは穴だらけ
・座席前にあるポケットも穴だらけ
・シートが小さい
・リクライニングが壊れている
・エアコンも扇風機すらない
・天井に頭がぶつかる程揺れる
・その激しい揺れで窓が開く
・当然窓のロックも壊れている
・バスで流れているインド映画の音量がけたたましい
・しかも皆で大合唱している
・蚊が多い
他にも理由はたくさんあるがあんまり愚痴ってばかりいてもインド人らしくない。インド人にとってはこれが普通だからである。
覚えている方は少ないだろうが僕はこの旅にたいした荷物を用意してきていない。本2冊とパスポートそれとギャグで持ってきた蚊取り線香だけだ。この時僕は勝利の雄叫びを上げた。バスには人間一人に対して蚊が10匹も居る具合である。何でもありのインド。ためらいなく蚊取り線香に火を点ける。立ち上る煙。逃げ惑う蚊。不快な顔をする隣のインド人。全てが計算通りである。蚊の問題は解決した。残った問題点など大した事はない。後はシートが広くなり、リクライニングが直り、エアコンが動き、隙間風がなくなり、バスの揺れが納まり、クラシックが穏やかに流れ、奴等が歌わなければもっと快適になるなるのだが・・・
走る事十数時間、夜が明けてしばらくする頃目的地に到着。昼夜で寒暖の差が激しいインド。窓開けっぱなし休憩なしで爆走してきたこのバス。何より寒かったのでこの停車がどんなに待ちどうしかった事か。けれども正しい現在地が把握できない。いくつかの停留所で乗客が少しづつ減って行き、どこがアウランガバードなのかさっぱりわからず降車のタイミングを見計らっていた僕はとうとうバスの中で一人だけになってしまう。僕を冷たい眼差しで見つめる運転手。どうやら降りろと言っているらしい。こんな時は言葉が通じ合えなくてもどういう訳か伝わる。仕方なく降りる事にする。ここがアウランガバードであること祈りながら。
インド人の朝は早い。まだ早朝であろう時間帯に果てしない数の人が居る。バスから降りる客をカモにする為だ。ここで僕は運命的な出会いをする。タクシードライバー『ユーノス』との出会いだ。まずは土地の確認をしたいと思っていたところ。実はバスに乗る前からアウランガバードという単語を1度も聞いていない。乗客の会話の中や運転手が知らせる停留所の案内にも注意深く耳を傾けていたのだが一切アウランガバードという言葉は含まれていなかった。もしかしてとんでもない所に来てしまったのではないか?やっちゃった?そんな不安でいっぱいになっていたとき優しく言葉をかけてくれたのがユーノスだ。地図を広げ一生懸命説明してくれるユーノス。35歳の若さで9人の子供が居るユーノス。ペットの牛の写真を車に飾っているユーノス。目ヤニがべっとり付いているユーノス。観光客を相手に生計を立てているようなので必要以上に親切だ。いつもなら警戒してしまうところなのだが、ここがアウランガバードとわかるとユーノスが天使に見えるから不思議なものである。目ヤニの付いた子沢山の天使。本当は時間にゆとりがあれば自分の足でバスなどを乗り継ぎ目的地にたどり着きたかったのだが、そうしてしまうとエローラかアジャンタどちらかにしか行けない。どうせなら両方行っておきたい。デラックスとは名ばかりのデラックスバスに十数時間も揺られたのだ。次にいつ訪れるか判らないこの土地。いろんな思いが交錯し必死に言い訳を考える。タクシーを使うことがインド人らしくないと思い込んでいた頑固な僕だが、ここは優しく接してくれた目ヤニのエンジェルの為、その家族の為にと偽善的な思いで目ヤニのエンジェルに身を委ねタクシーに乗リ込む。
最初の目的地はアジャンタ。ユーノスの話では車をブッ飛ばして2時間掛かるという。その間必死に話かけてくる目ヤニ。言っておくが僕はさっぱり英語が出来ない。当然ヒンドゥー語も出来ない。会話なんて成り立つわけがない。その上異常に眠い。バスでは振動と隙間風と大合唱のせいで一睡もしていないのだ。沈黙が訪れ冷めた空気が漂う。静寂を気にしたのか子沢山が一冊のノートを差し出す。どうやら乗客に書いてもらっている思い出帳のようだ。中には日本語で書かれている文章もある。
「運転荒けど嘘つかないしマシな奴、高いけど」「観光後食事に連れて行かれ家族全員分払わされた、しかも運転が荒い」抜粋するとこんな感じである。どうやら運転が荒く、観光後大家族にご馳走しなければいけないらしい。余り良いことが書かれていない。どう考えても目ヤニのエンジェルは日本語がわからないようだが僕にも何か書けと言っている。確かに運転は荒い。でも急発進、急停車が大好きな僕にとってはさほど不快でもない。今後この子沢山のエンジェルと出会うであろう日本人の為に軽い罠をしかける。何を書いたかは伏せておくが。
豪快な運転で無事アジャンタに到着。アジャンタ石窟寺院群である。ユーノスは駐車場で待っているという。そうであろう、この先は入場料が掛かるからだ。1時間後に待ち合わせをして石窟に向かう。ここの石窟は紀元前2世紀くらいから数百年にかけて掘られたもので新しいもの(と言っても千年以上前に造られたもの)は優美な装飾文様や絢爛な彩色壁画が見られる。余談だがここが発見されたのは1819年で虎狩りに来ていた英国の軍人ジョン・スミス氏が偶然見つけたらい。2百年程たった今でも見学コースの整備も不十分でこんな広い石窟群を1時間で回れるわけがない。逆算してエローラの移動時間を考慮しても3時間は居れる。とりあえずユーノスとの待ち合わせは忘れてのんびりする事に。現存する古代インド絵画の最高峰と呼ばれるアジャンタ、僧たちが起居したヴィハーラという所で一寝入りしてみる。石窟なので当然石で出来ているのだが寝心地は悪くない。管理人が起こしに来るまで寝ることにするのだがいつまで経っても誰も来ない。ここは世界遺産にも登録されている。僕が目を覚ました時には同じようなバックパッカーの白人も寝ている。世界遺産で二人の異国人が昼寝している。ここでもインドの寛大さを感じる。
だらだら過ごした後ユーノスの元へ戻る。料金は全ての任務が終了してからと契約しているので2時間もほったらかしにしたが例えユーノスが居なくなっても僕は一向に構わない。これはインド人の気質に合わせた行動である。言い訳っぽいが僕は悪人でも罪人でもない、 はずである。
想像通りユーノスはイビキを掻きながら、だらしない格好で車で寝ている。とても9人に子供を養っているパパには見えない。そして何事もなかったようにエローラへ出発。一時間後に待ち合わせしていたことなんて覚えていない。これが僕の知っているインド人である。
途中知り合いが営むレストランがあるという。そこで昼食を採ることに。レストランとは名ばかりの日本で言う処の海の家のような作りで、お昼の時間だというのにまるで賑わっていない。席に案内されカレーとチャーハンとナンを注文する。お店には大量のハエ。料理と共にハエが運ばれてくる。このハエカレーがうまい。本当にうまい。そしてハエナンも相当うまい。最後に運ばれてきたハエチャーハンも最高である。先日食べた最高級ホテル、タージ・マハル・ホテルやオベロイのUS$50のモーニングよりもここのハエ料理の方がべらぼうにうまい。うまいついでにインドへ来てインド人と食事をするのは初めてであるのだが、すっかりインド人になりきっている僕はこれ見よがしに右手裁きを披露する。フッとユーノスを見ると何事もなかったかのように左手で食べている。え?左?僕の得た情報ではインドで左手は不浄の手。食事はもちろん握手なんかも左手を使わない。だがそんなことはユーノスには関係ない。全く関係ないのである。
◆つづく◆
iPhoneからの投稿
2012
07Dec